2011年5月16日月曜日

APFS国際シンポジウムを終えて

昨年末よりボランティアとして活動している宣です。このたび韓国語を話せるということでボランティア開始以来、一番の大仕事を受け持つことになりました。5月1日に開催された国際シンポジウムで韓国からゲストを招き、言葉等の助手として一日働きました。一ボランティアとして、その日の模様をご報告します。

5月1日、「外国人住民の暮らしを支える-日本と韓国の非正規外国人支援の経験から-」という表題を掲げ行われた国際シンポジウム。今回のシンポジウムでは、韓国で非正規滞在外国人支援を行っている団体「アジアの窓」からゲストをお招きし、外国人住民の方々の生活支援について両国の現状を報告しました。まずは山口元一弁護士より、日本の在留特別許可の現状とそれがどのように変遷してきたのかという経緯について、法律の視点からお話し頂きました。続けて加藤代表理事により、APFSがこれまで歩んできた道、そしてこれから取り組んでいく道筋について発表しました。「在留特別許可に係るガイドライン」が改訂されてきたと言えど、まだまだ解決すべき問題が多くあるのだということを痛感しました。家族が離れ離れになってしまうこと、日本で育った子どもがいても在留特別許可を必ずしももらえるわけではないこと、非正規で入国した人は問答無用で収容されてしまうこと、そして未だ残る彼らへの偏見や先入観。一歩一歩着実に前進していかなければならない、そのためにできることがあれば少しでも取り組んでいかなければならない、そう感じました。


続けて、韓国の外国人住民支援団体「アジアの窓」所長、イ・ヨンアさんにお話しいただきました。驚いたのは、韓国の支援団体の活動は日本のそれより進んでいる点が多いということです。移住者のための語学教室や情報サイトの運営、コミュニティ維持など積極的に支援活動が行われています。その一方で、日本に比べ外国人の内、非正規滞在の方の比率が非常に高く、非正規滞在の子どもは学校を卒業した資格さえもらえないという深刻な問題もありました。日韓それぞれが抱える問題の解決のため、相互に助け合いながら乗り越えていく必要があると強く感じました。

最後に佐々波記者より、日本からフィリピンに強制送還された子供たちの帰国後の様子を報告していただきました。その報告から明らかになったのは、子どもだから適応能力が高くすぐに日本ではない地にも慣れるという見解は誤りであるということです。言葉もわからない、文化も違う、友達にばかにされる。そんな環境に置かれながらも、もがき必死に食らいつく子どもたちの姿がありました。「いつか日本とフィリピンの架け橋になるんだ」私は悔しさと同時に未来への希望を感じました。


パネルトークのコーディネーター渡戸教授の計らいで、会場にいた今まさに在留特別許可を取ろうと頑張っている少女の意見を聞くことができました。実際に長い間闘い抜いて在留特別許可を勝ち取ったガルシアさんが彼女を激励しました。「どんなに辛くても、何年かかっても必ずHappyになれる日が来るから、その日までみんなで頑張りましょう」彼女だけでなく会場にいた全員が勇気をもらったはずです。当事者ではない分、彼らの痛みや苦悩を100%共有することは難しいのかもしれない。でも、私にできること、私が考えられること、一つ一つに向き合い、彼らにそのHappyが少しでも早く訪れるよう頑張っていきたいと改めて感じることのできた一日でした。

2011年5月12日木曜日

ボランティアの感想です。(長島さん)

A.P.F.S.では社会人・学生など様々なバックグラウンドの方がボランティアとして活躍しています。  
ボランティアとして活動してみての感想を、長島さんに寄せてもらいました。

わたしが、入管を知ったのは7年前のことです。東日本入国センターに収容されている人が書いた手紙を目にしたことからです。フランス語圏の人たちのものだけなので、ごくわずかですが、この先進国日本でこんなところがあったのか!と本当にショックでした。

オーバーステイだけを理由に狭いところに長期間収容され、病気になる人もたくさんいます。仮放免を得るために煩雑な手続きをし、多額のお金(保証金)も用意しなければなりません。しかも仮放免になっても働くことはできません。また収容されるかもしれません。

そのころ海外メディアで、アフリカの人たちがあふれるように乗っている小さな船が、たとえばイタリアのリゾート海岸に流れ着くといったニュースをよく見ました。命を落とす人も大勢いました。パリでは、不法滞在者のデモがよくあります。しかし日本では、これほど多くの外国人が暮らしているのに、入管を知っている人はほとんどいません。ですからわたしがこのような実態を説明しても、なんのことだか分からない人がほとんどです。

でも最近わたしの住む杉並区では外国人のための無料相談会がありました。少しずつですが行政が関わってきているのだと思います。

外国人が日本で暮らしているのですから、A.P.F.S.のような団体と一緒になって、お互いに理解できるように、そのために日本で暮らす外国人の悩みを聞いて、手を貸そうと思います。

2011年5月11日水曜日

スラジュ弁護団 慰労会を行いました

5月9日、APFSは日ごろスラジュさんの事件でお世話になっているスラジュ弁護団の先生方を都内飲食店に招いて慰労会を行いました。弁護団の先生方は皆さんボランティアでこの事件の真相解明のために動いてくださっています。

会に参加したスラジュさんの奥様から、弁護団の先生に感謝の気持ちが述べられました。奥様はスラジュさんが突然亡くなり、自分の生きている意味を見失いそうになっていましたが、先生方の存在で何とか生きる力を取り戻せたとおっしゃっていました。

先生方もこの事件に関わる熱い気持ちを話していました。また、今後の国賠への戦略、検察へのアプローチなど議題満載の会となりました。

ちなみに、今回会場となった飲食店は、APFSの会員さんが働く中華料理店。頼もしく働いている姿が見れてよかったです♪

2011年5月2日月曜日

バングラデシュカレー500食提供活動を終えて(ハッサン)

シャジャハーン バイタリク(ハッサン)(A.P.F.S.理事/パドマ)

※ハッサンさんのレストラン、パドマのblogへのリンクを付けました(2011/5/2)。
リンクは、→こちら←からご覧いただけます。

○被災地に行こうと思った動機
私のできることやりたかった。「大変かな」といくら思っても、被害者の気持ちは分からない。私たちは分からない。家族がなくなるとか、どのくらい辛いかな。とても辛い。家帰って、風呂入って寝られない。どういう世界かな。その人達(被災者)のために、何でもいいから、「みんな頑張ってください」と、出来る限りなんでもやりたい。私の仕事場(パドマ/イタリア・バングラデシュ料理)これだから、私一番(食事の提供が)やりやすい。みんな(に)一瞬でも温かいもの(を)食べて(もらって)、私の気持ち伝えようかなと思った。

○取材よりも、被災者のために
私の国の名前も宗教も言わないで(現地に)行こうと思った。言いたくなかった。宣伝のためにやっていないし。取材の人にも、「取材のために来ていないし」と(言って)取材の人たちも断った。仕事やりながら聞いてくれと言った。その(取材の)ためじゃなく、同じ人間として(被災者を助けるために来た)。

○みんな一緒に
(自分に)日本から出た方がいいよという人もいるが、みんな一緒だから、出ていくなら日本人みんな(が出ていくとき)じゃないと。

○人生で初めて幸せ
幸せ。人生で初めて幸せと感じた。私、3日くらい寝ていない。緊張感もすごいし、重い仕事もすごかった。往復(車を)運転して、身体はボロボロの状態だった。(活動後家に帰って)お風呂に入って、缶ビールを飲もうとしたが、ビールを飲めないくらい疲れていました。身体は。

4時間寝たら、仕事に戻った。身体の疲れも全て取れ(てい)た。それはなぜか、幸せの気分だから。幸せだから、身体の疲れもすぐに取れた。普段は長時間運転すると、足に痛みが出るが、今回は何とも感じなかった。

みんな年寄たち、あんな苦しい中頑張っている。寒い。食べ物がない。外出られない状態になっている。雪が降っている。おにぎりだけ、味のないおにぎり、ただのごはんだけ食べて。(その光景を見て、自分は被災地で)朝から食べられなかった。私たちこんな贅沢な生活しているのに。それ考えると食事が出来なかった。そのとき(食事の提供が終わった後)、(被災者に)もらったおにぎりを初めて食べた。

500人の食事作ることは、私プロとして難しいことではなかったが、何が違うかって、今まではお客さんのために作る。お客さん食べて、お金払う。商売だから、売れたらいいこと。売れなかったらしょうがない。今回の場合は、何かの原因でミスがあったら、時間が遅れたりしたら、代わりがない。500人約束した、私がやると大丈夫と責任をもった。何かの原因で、出来なかったらどうしようと、失敗許せない状態、すごい緊張感、プレッシャーがかかった。そういう経験は初めて。それが無事にできて、幸せな気分になった。今まで、何が幸せと考えたことなかったが、(今回)幸せを味わうことができた。おじいさん、子どもたち、おかわりして喜んでくれたことは、すごい人生、忘れられないこととして残る。

○女鹿さん(現地で調整をしてくれた県庁職員)と市役所職員に感謝
加藤さんの友達、女鹿さんのおかげ言っても、おかしくないくらい、(女鹿さんは)大変大事な仕事をしたと思う。助かりました。そうじゃないと、下道(したみち)ナビ(が)ないし、人もいないから聞けないし。情報とか教えてもらったり、(女鹿さんが)6時に(インターチェンジに)来(てくれ)た、(きっと女鹿さんもあまり)寝ていない。それに感謝する。向こうの役所の方たちを受け入れてくれたことに感謝する。そうじゃないと行くこと出来なかった。

○岩手県大船渡市の皆さんへ
色んなものがなくなったり、家族がなくなったり、友達がなくなったり、胸が悲しいでいっぱいだと思うけど、行く先もないし、生きていく気持ちもなくなっている(と)感じ(ることがあってもそれ)はおかしくない。
自分のためだけでなく、みんなで頑張らなきゃ。みんなあなたたちの心強くするために応援しています。全国のみんな、世界のみんなのためにもう一回ゼロからやり直し、心強くして、(被災地の)みんな強いと思う。絶対乗り越えられる。それ信じて頑張ってください。ありがとうございました。

○末先小学校で皆さんから拍手を受けて
みんな、ありがとうございます。拍手を受けたのが、すごく恥ずかしかった。逆じゃないですか(私たちが皆さんに拍手を本来ならすべきなので)。すごい恥ずかしかった。(被災者の皆さんが東京に住んでいる)私に文句言っていいから、叩いていいから。(私は)東京で贅沢生活やって、(被災地の皆さんは)あんなひどい目に合わなくていけなくて、(でも)私たちに拍手をしてくれた。恥ずかしかった。

○買い占めに一言
(東京は)買いすぎて、パニックになっている。向こう(被災地)は(食事が)おにぎり一個。(東京は)あれない、これないって、買っている。何も(支援活動を)やらなくていいから、(まずは)一度(被災地)見てきてほしい。自分のやっていること(買い占め)の間違いに気が付くと思う。

○これからに向けて
向こうにしばらくいて食べ物作ったり、向こうの解体を手伝ったりしたい。
その代わり、(その間)私の会社誰か見てくれたら。。