2014年4月11日金曜日

ボランティアの感想(福本修さん)一年を振り返って―断想ひとつ― 

昨年4月から退職を機に、知人を通してAPFSを紹介され、週一度のボランティアをはじめている。事務作業を中心に、スタッフの活動の「後方支援」といったところである。その中でスラジュさん事件国賠訴訟やフィリピン人高校生M君とその母親をめぐる問題などに触れえたことは、やはり新鮮な「驚き」とともにさまざまなことを考えさせられている。もとより、私の「経験」などAPFSの長年にわたる活動全体からみれば、そのほんの一端の、さらに上っ面のことに過ぎまい。エラそうなことはとても言えない。

それでも「神は細部に宿る」ことが真実であるのならば、この一年足らずの「経験」から学んだことにも少しは意味もあろうというものだ。その一つを記させていただく。
それは、相も変らぬこの国の無残な姿に他ならない。オールドカマーとしての在日コリアンへの対応がそうであるように、グローバル化の中で来日したニューカマーと呼ばれる人々もまたその多くがモノ扱いなのだ。ここで思い出されるのは、自身ナチスの手から逃れてきた難民(displaced person)の一人であったH・アレントの言葉である。彼女は、「普遍的人権」を標榜する近代国民国家が、現実には己が「国民」の権利保障に汲々とし、その外に生きる他者たちの人権など埒外のこととして無視し、放逐してやまない欺瞞をものの見事に衝いていた。それから60年以上のときが経っている。にもかかわらず、普遍主義の成り立ち難いニッポンの精神風土のただ中にあって、スラジュさんもM君も、そうしてそのお母さんも真っ当な「権利主体」であるどころか、ただ単なる「管理対象=客体」にすぎないではないか。

ここには植民地支配の負の遺産から何一つ学ぼうとしない歴史意識の決定的な欠如が明らかだろう。そうして今や、支持率の高さに支えられた安倍政権の下での一連の出来事―沖縄基地問題、靖国参拝問題、教科書・教委問題等々―、さらにはヘイトスピーチから浦和レッズ横断幕事件etc.・・・。まったく暗澹たる気分におちこむばかりだ。

しかし、そうだからこそ、「人間の権利」の歴史的展開をふまえ、「人権の普遍性」と「文化の多様性」との微妙な「塩梅」をはかりながら地道に活動を続けていくことにネウチがあるのだと思うのである。