2014年2月25日火曜日

「外国人の受け入れと多文化共生のあり方を考える議員連盟」第1回総会に出席しました

「外国人の受け入れと多文化共生のあり方を考える議員連盟」第1回総会に市民団体の一つとして出席しました。

移民政策、多文化・多民族共生社会のあり方を考えるとのことです。
「多文化共生」という名前がついた議員連盟はおそらく初めてではないでしょうか。
今後の展開に期待しています。
 
出席している議員からは、スラジュさん事件に関する質問も受けました。スラジュさん事件への関心の高さが窺われました。3/19に国賠訴訟地裁判決が出ること、勝訴を信じて「控訴するな」署名運動に取り組んでいることなどを説明しました。

議連の今後の展開に期待しています。

2014年2月13日木曜日

スラジュさん事件国家賠償請求訴訟(判決) 傍聴のお願い

日 時:2014年3月19日(水)10:30~
場 所:東京地方裁判所 103法廷 ※直接法廷にお越しください。
(東京メトロ 「霞ヶ関」駅A1出口すぐ)


2010年3月22日、ガーナ国籍男性ABUBAKAR AWUDU SURAJさん(以下、スラジュさん)が国費送還中に死亡しました。その送還に同行していた入国管理局職員が規則では認められていない足手錠やタオル、私 物の結束バンドなどを使用し、むりやりに拘束し起きた死亡事件です。
スラジュさんの死の真相を究明するため、2010年8月5日、国と入国管理局職員に対する損害賠償請求訴訟を提訴しました。スラジュさんは超過滞在 していたことを反省し、妻と日本で生活することだけを望んできました。そんなスラジュさんがなぜ死ななければならなかったのか、訴訟を通じて明らかにして いきます。
次回期日は、いよいよ判決となります。この裁判で、送還の残酷な実態、入管職員の人権意識の低さなどが露呈し、死因鑑定書への疑念が湧き上がりました。こうした事実を裁判所がどのように判断するのか、皆さんの耳で直接聞きに来てください。
法廷は、判決の言い渡し法廷としては異例と言っていい、とても広い103法廷です(80名ほどの傍聴席があります)。皆様、総結集でぜひ「勝訴」の瞬間に立ち会ってください!

2014年2月12日水曜日

ウガンダ国籍のジャミラさん母子に在留資格が認められる!

在留資格を手にするジャミラさん
2014年2月12日、ウガンダ国籍のジャミラさん母子に在留特別許可が出ました。

ジャミラさんがAPFSの事務所を初めて訪れたのは、2010年8月のことでした。一緒に3年半、闘い抜き、一つの成果を手にすることができました。

ジャミラさんには、当時、日本人男性との間に
子どもが生まれたばかりの頃でした。
男性が子どもの認知や結婚の手続きもすることなく、行方をくらましてしまい、ジャミラさんは超過滞在の状態に追い込まれていました。

男性の行方を追いかけても、追いかけても、男性は見つかりませんでした。
ジャミラさんは、男性不在のまま生後認知を求める訴訟を
提起することを決意しました。
男性不在で、直接的な証拠はないという、
極めて不利な状況にありましたが、あきらめずに当時の状況を説明し、
共通の知人から証言をしてもらったりと、立証する努力を続けました。
訴訟の結果、子どもに生後認知が認められることとなりました。
あきらめないで努力をした結果でした。

生後認知が認められたことで、次に子どもの日本国籍取得を
目指すことになりました。
日本人スタッフも思わずため息が出るほどの膨大な書類を
全て日本語で準備をしなければなりません。

母国ウガンダからも書類を取り寄せなければなりませんが、
ウガンダでは、日本のように役所で簡単に書類が
取れる状況にはありません。
ウガンダ大使館に協力を求めたりと出来ることをしてきましたが、
法務局が求めるような書類をなかなか準備することが出来ず、
時間だけが経過していました。

ジャミラさんは同国人の仲間の助けも借りながら、
生活をしてきましたが、仲間も何年も支えることは難しく、
ジャミラさん母子の生活は限界にきていました。
不安定な生活状況の中、子どもは度々体調を崩します。
しかし、超過滞在のままでは健康保険にも加入できないため、
子どもを病院にも連れていくことも出来ません。
しまいには連絡を取ろうとしても、携帯電話も止まっており、
葉書で連絡をするような状況になっていました。

せっかく道半ばまで来ているにもかかわらず、
このままでは最後まで闘い抜くことが出来ない。
今後、日本国籍を間違いなく取得できるケースである。
生活を立て直すためにも、人道的な見地からも、
早急に在留資格が必要である旨をジャミラさんと共に訴えてきました。

その結果、3年半経った、今日、
在留資格という一つの結果をジャミラさん母子は手に入れました。
ジャミラさんは仕事をすることも、病院に行くことも
これから出来るようになります。

ジャミラさんは、APFSスタッフの「あきらめないで」の言葉に
何度も救われたと、その気持ちを語ってくれました。
APFSスタッフは、ジャミラさんの芯の強さに励まされる思いがしました。
子どもを思う気持ちから芯の強さが生まれるのだと感じました。
子どもは気がつけば4歳になりました。

生活の立て直し、日本国籍の取得とまだ課題は残されています。
しかし、ジャミラさん母子がここにおいて素晴らしい第一歩を
踏み出したことだけは間違いありません。
APFSはジャミラさんと最後まで共に歩み続けます。
今後とも皆さまの応援をよろしくお願いします。

2014年2月11日火曜日

スラジュさん国賠 結審(弁護団の最終弁論及び報告)


スラジュさんの奥様からの最終意見陳述後、原告弁護団からの最終弁論がありました。
2010322日、事件当日に何があったのか、まずは事件からこれまでの約4年間の事実経過と違法性の確認が述べられました。

事件後、国側から遺族に対し事件の詳細が知らされることはなかったこと。
証拠保全手続きを行っても、国が多くの証拠の開示を拒否したこと。
ようやく出てきた事件当日のビデオには、スラジュさんと入管職員が機内に入った時点で録画が止められていたこと。

こうした、事件の真実を隠蔽しようとする国側の態度に対し、国家賠償請求訴訟での入管職員の尋問などを経て、多くの残酷な事実が明らかになりました。
スラジュさんに規則で認められていない戒具(タオルや結束バンドなど)を使用したこと。
スラジュさんに不要な制圧姿勢を強いたこと。
スラジュさんが抵抗したという入管職員の供述は嘘であったこと。
明るみに出たこうした事実により、事件当日の入管職員の行為は「過剰」で「不必要」で「法令違反」であり、そのため国家賠償法上違法ということは明らかであると述べました。

その後、スラジュさんの死と入管職員の行為との因果関係について述べられました。
入管職員に危険な制圧姿勢を強いられていたまさにその瞬間に、スラジュさんは病気によって心臓が止まったという被告側の主張がいかに不合理であるか。また、国側の主張では何ら科学的な根拠を出せておらず、医師の証言のみを論拠としている。こうしたことを踏まえて、スラジュさんが危険な制圧によって亡くなったということは、誰の目にも明らかであると述べました。

裁判は40分ほどで終了となり、その後は場所を移して報告の時間をとりました。弁護団の先生から最終弁論内容の簡潔な説明があり、また、この訴訟の被告である入管職員9名部分のみの取り下げについて報告・説明もありました。その後、報告に集まった多くの方から様々な質問が出、次回の判決を前にして皆さんの熱気が伝わってきました。



2014年2月5日水曜日

スラジュさん国賠 結審 (原告奥様の意見陳述)

2月3日(月)、スラジュさん事件の国賠訴訟が結審しました。
傍聴席は満席で、控室にて20名程度の傍聴希望者が待機という状況でした。
今回は最終弁論でしたが、原告のみの弁論で、被告側の弁論はありませんでした。

最初に原告奥様からの最終意見陳述がありました。

スラジュさんがイラストを書く時の様子やそば好きのスラジュさんが馴染みで通っていたお蕎麦屋さんでのエピソード、桜の咲くころによく散歩した公園での二人の会話など、スラジュさんとの思い出がたくさん詰まった意見陳述を聞いて傍聴者の中には涙をおさえることができない方もいるほどでした。

冒頭で奥様は「心のよりどころを失って私の時間は止まったままです」と述べました。
奥様の時間が少しでも早く動き出せるように、よりよい判決が出ることを願わずにはいられない陳述でした。

(弁護団の弁論、及びその後の報告会については近くご報告いたします。)

 

2014年2月4日火曜日

被災地復興支援に尽力したダンテさん、再収容される

2014年1月20日、ダンテさんが東京入国管理局に(再)収容されました。

ダンテさんは違法状態のままではいけないと思い、
東京入国管理局に出頭をしました。
在留は認められず、その後、退去強制令書発付取消の訴訟も提起しましたが、
訴訟でも敗訴となりました。
訴訟で敗訴した以上、仮放免を続ける理由がないというのが東京入国管理局の言い分でした。

ダンテさんには日本に家族こそいませんでしたが、
日本に20年以上居住する中で、日本語をよく理解し、
建築関係の経験を活かして、日本で暮らしていきたいと願っていました。

右端がダンテさん
ダンテさんは、岩手県陸前高田市(2011年5月)、伊豆大島(2013年11月)と
APFSが主催した「被災地復興支援ボランティア活動」にも2回参加しました。

ダンテさんは身体が大きくて、口数の少ない大人しい人でした。
誰よりも力持ちで、復興ボランティアにおいて大活躍をされていました。
なぜ、被災地支援に参加してくれるのかを訪ねたときに、

「第二の母国である日本のために力を尽くしたい」と言っていたのが印象に残っています。

収容後、ダンテさんに面会し、
過去に再収容後も仮放免が認められた例なども紹介し、
話をしましたが、ダンテさんは帰国を決断されました。
「もし、子どもがいれば耐えられるかもしれないけど、
一人では収容には耐えられない。」と言っていました。

ただ、「本当は残りたい」とつぶやかれていて、何ともいたたまれない気持ちになりました。

東京オリンピックの開催に向けて、
新たに建築労働者を日本政府は時限付きで受け入れる方針を掲げています。
果たして、政府が予想しているとおりに労働者は動くでしょうか。
新たな人を受け入れる前に、日本語をよく話し、建築関係の経験が豊富なダンテさんを活用することがなぜ出来ないのかと憤りを感じています。

ダンテさんの今後に少しでも良いことがあるよう願わずにはいられません。